恵み -
den 14.07.2005 edit
攻殻機動隊 -
den 14.07.2005 edit
押井守監督の『攻殻機動隊』(1995)を観た。まことに時代遅れながら、ジブリ以外のアニメを集中して観たのは初めてだ。「二十世紀最大の美的産物が《抽象》であるなら、《アニメーション》は、二十一世紀の最も特殊な美的創造になるでしょう」という、あるキューレターの言葉に触発されてのことである。
確かに、作品にはさまざまな斬新な視覚的要素が盛り込まれていたと思う。特に、光と影の操り方はすばらしいものだ。最大限に省略化された線と面と色の力強い構図が、浮世絵の切れ味を思いださせる。その一方で、非常に細かい描写が背景の隅々まで行き届いている場面もある。手のこんだ絵を惜しげもなく使い捨てるその心意気は、なかなか粋といえる。簡略化した絵で重要な場面を非日常化し、余韻となる通俗の場面には複雑な絵を用意するというこの仕掛けは、主観的な世界を表現するのにとても都合がいい。
また、内容の濃淡もはっきりとしている。墨絵のごとく、白く淡い時間のなかに黒い意味のかたまりが所々浮かんでいるようだ。同じ時間内に詰めこめる内容の量が、アニメ画像の質によって変化している。
そしてなによりも強く感じたのが、異なるテイストの《部品》が、同じ舞台にあげられているにもかかわらず、全体としてまったく違和感がないということだ。ひとつの大きな流れのなかに混淆性が達成された、ポストモダンの潮流である。
『攻殻機動隊』の内容に関して言えば、これは「生命にとって情報――すなわち記憶――とは何か」という問題を扱うに尽きる。人間の記憶が外部化されたとき、われわれは生命の定義方法をひとつ失うのではないか、という問いかけを契機として、情報と生命の逆説的な関係を提示している。情報が、1)自己保存のプログラム(DNA差異化・多様化のプログラムを含む)と、2)死のプログラムを持ったとき、それを《生命》と呼べない理由はない。現代科学の盲点を突いた試みといえるだろう。
僕の意見としては、もしそういう科学的生命が表れたとしたら、それは自身の完全性が故に破滅に至るであろうということだ。プログラムは必然的に《目的》を持ってしまう為、人間のように不条理なまま実存することができない。それは、早急に人間界の苦しみを解決し、死の彼岸へ渡ってしまうにちがいない。生命のエンドは死なのだから。
自説の宣伝はともかくとして、有意義な一時間を過ごした。最近の若者がなにを考えているのか、ちょっとわかった気がする。
確かに、作品にはさまざまな斬新な視覚的要素が盛り込まれていたと思う。特に、光と影の操り方はすばらしいものだ。最大限に省略化された線と面と色の力強い構図が、浮世絵の切れ味を思いださせる。その一方で、非常に細かい描写が背景の隅々まで行き届いている場面もある。手のこんだ絵を惜しげもなく使い捨てるその心意気は、なかなか粋といえる。簡略化した絵で重要な場面を非日常化し、余韻となる通俗の場面には複雑な絵を用意するというこの仕掛けは、主観的な世界を表現するのにとても都合がいい。
また、内容の濃淡もはっきりとしている。墨絵のごとく、白く淡い時間のなかに黒い意味のかたまりが所々浮かんでいるようだ。同じ時間内に詰めこめる内容の量が、アニメ画像の質によって変化している。
そしてなによりも強く感じたのが、異なるテイストの《部品》が、同じ舞台にあげられているにもかかわらず、全体としてまったく違和感がないということだ。ひとつの大きな流れのなかに混淆性が達成された、ポストモダンの潮流である。
『攻殻機動隊』の内容に関して言えば、これは「生命にとって情報――すなわち記憶――とは何か」という問題を扱うに尽きる。人間の記憶が外部化されたとき、われわれは生命の定義方法をひとつ失うのではないか、という問いかけを契機として、情報と生命の逆説的な関係を提示している。情報が、1)自己保存のプログラム(DNA差異化・多様化のプログラムを含む)と、2)死のプログラムを持ったとき、それを《生命》と呼べない理由はない。現代科学の盲点を突いた試みといえるだろう。
僕の意見としては、もしそういう科学的生命が表れたとしたら、それは自身の完全性が故に破滅に至るであろうということだ。プログラムは必然的に《目的》を持ってしまう為、人間のように不条理なまま実存することができない。それは、早急に人間界の苦しみを解決し、死の彼岸へ渡ってしまうにちがいない。生命のエンドは死なのだから。
自説の宣伝はともかくとして、有意義な一時間を過ごした。最近の若者がなにを考えているのか、ちょっとわかった気がする。
