新しい一歩 -
den 21.05.2006 edit
閑人たちの会話
ある日、金持の邸へ数人の客が集まった。そして偶然にも、人生に関するまじめな会話が交わされることになった。
一同は席にいる人、いない人の誰彼についてさまざまに話し合った。が、自分の生活に満足している人物を、一人も見出すことができなかった。
誰一人自分の幸福を誇ることができなかったばかりでなく、自分は真のキリスト教徒にふさわしい生活をしていると思っている者さえ、一人もいなかった。誰も彼もが世俗的な生活をいとなんで、自分自身の問題や家族のことばかり思い煩い、隣人のことはもちろん、神についてさえ、考えようとしていないと告白しあった。
客人たちは互いにそうしたことを話し合い、その結果、キリスト教徒らしからぬ不信心な各自の生活を避難することに一致した。
「では、なぜわれわれはそんな生活をするのでしょう?」と或る青年が叫んだ。「なぜ自分さえよくないと思う生活をするのでしょう?はたしてわれわれには自分で自分の生活を何とか変える力がないのでしょうか?われわれを滅ぼすものは奢侈です、遊惰です、富です、とりわけ慢心と、同胞たちからの孤立とがいけないのです。このことはわれわれ自身も自覚しています。われわれは地位や財産を獲得するために、人間の生活に喜びをもたらすいっさいのものを、放棄しなければなりません。われわれは都会に密集して、われとわが身を柔弱にし、健康を害しているのです。そしていろいろの楽しみがあるにもかかわらず、倦怠に蝕まれ、自分たちの生涯はこんなものではないはずだという後悔にいためつけられつつ死んでゆくのです。
なぜわれわれはそんな生活をするのでしょう?なぜわれわれはこんなふうにして自分の一生や、神から与えられたいっさいの幸福を台なしにするのでしょう?わたしは今までのような生活をしていくのはいやです。せっかくはじめた学問もやめます――だって、学問をしたところで、行きつくところは、今われわれがこうしてかこちあってやりきれない生活以外の何物でもありませんからね。わたしは自分の財産を放棄して、田舎へ行って、貧しいひとびとと一緒に暮らします。彼らと共に働き、自分自身の手で労働することを覚えましょう。もしわたしの学問が貧しいひとびとになんらかのお役に立つなら、喜んでお役に立てましょう。でもそれは村塾とか書物とかを介してではなく、直接彼らと親しく膝つき合わせて実行しようと思うのです。
そうだ、わたしは決心しました」そこに同席して父親を、伺うような眼つきで見上げながら、彼はこう言った。
「おまえの希望は至極もっともだ」と父親は言った。「が、しかし、それは軽率で、同時に無分別というものだ。おまえはまだ世の中ってものを知らないから、それで、すべてのことがそんなに容易に思えるのだ。われわれの眼には何でも美しく映るが、さてそれを実行する段になると、至極複雑で困難なものだ。踏み固められた道を歩くのさえ、なかなか骨が折れるのだもの、まして新しく道を切り拓いて進むなんてことは、こりゃ実に容易ならぬわざだ。そのような新しい道を拓くことができるのは、思慮分別が十分そなわり、人間の到達できるすべてのものを修得した人だけだ。おまえはまだ人生の何たるかを知らないから、新しい道を拓くなんてことを、たわいもないことのように考えているらしいが、それはみんな若さゆえの軽はずみと慢心がさせるわざというものだ。われわれ老人は、おまえたちがとかく血気にはやりたがるのを抑えつけ、われわれの経験でこれを指導してゆくという点で、必要な存在なんだよ。だから、おまえたち若者は、われわれの経験を利用するために、われわれに従うべきだ。おまえたちの活動すべき檜舞台はまだまだこれからずっと先だいまはただ成長し発展すればそれでよいのだ。成長するがいい、十分に勉強すべきだ。自分の両脚でしか(ヽヽ)と立ち上がり牢固たる信念ができて、もう大丈夫できそうだと思えるようになったら、その新しい生活をはじめるがいい。だが今は、おまえのためを思って指導している人の言うことを聞くべきであって、人生の新しい道を拓くべき時ではない」
青年は沈黙した。年長の客人たちはこの父親の言葉に賛同した。
「そうです、そのとおりです」中年の妻帯者が、青年の父親に向って言った。「実際、青年が、人生経験を持たずに、新しい道を拓こうとしても、間違いをおかしかねませんし、そんな人の決心なんて強固なものとはいえません。しかし、われわれ一同の生活が良心に反したものであり、われわれになんらの幸福をももたらしていないという点では、皆の意見が一致していたではありませんか。ですから、そのような生活から脱却したいという願望を、正当なものと認めないわけにはゆきませんな。
若い者なら、自分の空想を理性の帰結と取るかもしれませんが、しかし、わたしは若い者ではありませんからね。ひとつわたし自身のことをお話ししましょう。今晩いろいろとご高説を承っているうちに、ちょうどそれと同じような考えが、わたしの頭にも浮かんできたのです。わたしの現在送っている生活が、わたしに良心の平和と幸福を与えてくれないことは明らかです。経験も理性もそのことをわたしに示してくれます。ではいったい何をわたしは待っているのでしょう?われわれは朝から晩まで家族のためにあくせくしているが、さてその結果たるや、おのれも家族の者もみんな神の御心に反した生活をして、ますます罪業の淵に深く沈んでゆくばかりはありませんか。家族のために汲々としても、家族はいっこうによくなりません。というわけは、家族のために尽くすのが善ではないからにほかなりません。ですから、わたしはしょっちゅう考えつづけているのです。いっそのこと、自分の生活をがらりと変えてしまって、この若い方が言われるようにしたほうがよくはないだろうか、――妻子のことを思い悩むのをふっつりやめて、ただただ自分の霊のことばかりを考えるのですな。パウロが『妻を持てる者は妻のことを思い、妻を持たざる者は主のことを思う』と言われたが、もっともなことです」
中年男がこう言い終わるか終わらぬうちに、彼の妻をはじめ、一座の婦人は、いっせいに彼にくってかかった、
「そんなことはとっくに考えなけりゃならなかったんです」と中年の婦人は言った。「乗りかかった船じゃありませんか。そんなことでは、誰だって家族をささえて養ってゆくのが苦しくなった時、自分の霊を救いたくなったと言い出すでしょうよ、そんなのは欺瞞です、卑劣というものです。いいえ、人間は家族の中にあってこそ、神の御心にかなった生活をすることができるはずです。そんな具合にして自分だけ霊を救うなんてことは、いとたやすい生き方ですものね。だいいち、そんな行為に出ることは、キリストの教えにそむいたやり方ですわよ。神様は他人を愛せとお命じになりましたのに、あなたときたら、その神様をだしに使って、他人を傷つけようとなさるのね。いいえ、妻帯者には一定の義務というものがあります。ですから、それを無視するわけにはまいりません。でも、家族の方々が一本立ちできるようにおなりになったら、その時はおのずから別問題です。その時こそは、あなたのご勝手になすったらいいでしょう。誰だって家族に強制する権利なんか持ってはおりませんからね」
しかし妻を持った男はこれに賛成しなかった。
「わたしは家族を棄てようとなんか思っておりません」こう彼はいった。「ただわたしは、家族の者を、ありふれた俗物にしつけちゃならんと思うのです。つまりその、先ほど私たちが話したように、自分の快楽のために生活するような代物にではなく、子供の時から、困苦欠乏と勤労と相互扶助に――なによりも、すべての人との兄弟愛的な生活に――馴れるように教育しなければなりません。そして、そのためには、地位や財産を放棄してしまうことが何より肝腎なのです」
「あなたはご自分で神様の教えにそむいた生活をしていらっしゃるくせに、なにも他人の生活までわざわざおこわしになる必要はありませんわよ」と妻がかんかんになって叫んだ。「あなたは子供の時から、あなたのすき勝手な生活に終始しておいでになったんじゃありませんか、それだのに、自分の子供や家族の者を、苦しめようとなさるんですの?そんなことをなさらずに、ほっておいて気ままに成人させて、それからめいめいの自分の好きなことをさせたらいいんです。何も強制がましいことはしないほうがいいのですよ」
夫は口をつぐんだ。すると、同席していた一人の老人が、彼の弁護に立った。
「いや、かりにですよ」と老人は言った。「家族持ちの人間が、自分の生活をある程度の裕福さに馴らしておいて、突然、それをすべて失わせたりするのが、いけないことだとしてもですな。事実、子供の教育は一度はじめた以上、それをすべてぶちこわしてしまうより、すっかり全うさせたほうがいいですからね。まして、子供たちが成長したら、自分で最もいいと思われる道をたどることでしょうしね。一家を擁している者が、何ら犠牲を払わずに生活をいっぺんさせてしまうことは容易じゃない、いやむしろ、ほとんど不可能だ。その点は私にも異議はありません。これはとりもなおさず、神様がわれわれ老人にお命じになったことなのです。まァひとつ、自分のことを話さしていただきましょう。わたしは現在何の義務もないその日その日を送っております。実際の話が、もっぱらこの『おなか』に奉仕して生きているしだいです。食う、飲む、眠る、といっただけの、われながらあきれる生活をしています。わたしもそろそろこんな生活を捨てて、財産もきれいさっぱりと譲り渡し、せめて死ぬ前のちょっとの間でもいいから、神様がお命じになったキリスト教徒らしい生活をやってみる潮時なんです」
しかし、この老人の言葉にも、賛成する者はなかった。老人の姪も、名付親の婦人も(この婦人のもとで彼は自分の子供たち全部を洗礼し、祭日にはいつも何か贈物をするのを例としていた)、息子も席に居合わせたのだが――彼らは一人残らず、老人に反対した。
「そりゃ違います」と息子は言った。「お父さんはこんにちまで働きつづけていらしたのですから、もうゆっくりと休養なさるのがほんとうで、何もわれとわが身をお苦しめになるには及びませんよ。お父さんはもう六十年もアクの強い生き方をしていらしたのだから、今さらそれを抜け出すわけにはいきませんよ。そんなことをしようとなさればなさるほど、むなしく自分自身を苦しめることになりますよ」
「そうです、ほんとにそうですよ」と姪が相槌をうった。「生活が苦しくなってくれば、機嫌だってわるくなるでしょうし、そのためにぶつぶつ口小言をおっしゃるようになり、よけいに罪をお重ねになる結果を見るにきまっていますよ。神様は慈悲深くていらっしゃいますから、どのような罪人でも赦してくださいます。あなたのようないい心がけのお方は、なおさらですわよ、叔父さま!」
「そうですとも、それに今さらわれわれがそんなことをしたって何になりましょう!」叔父と同じ年ごろの老人が補足した。「あなたもわたしも互いに、余命いくばもないではありませんか。今さら新しいことをはじめて何になります?」
「ああ、何という不思議なことでしょう!」と今まで一言も口をきかなかった客が言い出した。
「実に不思議ですなあ!誰もが、やれ神様の御心にかなうように生活するのは結構なことだとか、やれわれわれはよくない生活をしているとか、やれ精神的にも肉体的にも苦しんでいるとかいっているが、そのくせいざ実行という具体的な問題になると、子供に打撃を与えてはならないから、神の御心にそむいて、従来のままに教育しなければならないということになってしまう。若い者はどうかというと、これまた両親の命にそむくことなく、神様の御心にそぐわない今までどおりの生活をしなくてはならないという。さらに、世帯を持った男もまた、妻子に心配をかけないために、神の御心にそぐわない、今までどおりの生活をしなくてはならないといい、また老人は、長い間の因襲がどうだとか、余命いくばもないとか、なんとかいってからに、どこにも新しい一歩を踏み出してはいけないっていうしまつだ。結局、誰一人心にかなった正しい生活をすることはできないので、ただ口先でとやかく論じあうだけが関の山ってわけなんだ」
***
『光あるうちに光の中を歩め』
トルストイ
ある日、金持の邸へ数人の客が集まった。そして偶然にも、人生に関するまじめな会話が交わされることになった。
一同は席にいる人、いない人の誰彼についてさまざまに話し合った。が、自分の生活に満足している人物を、一人も見出すことができなかった。
誰一人自分の幸福を誇ることができなかったばかりでなく、自分は真のキリスト教徒にふさわしい生活をしていると思っている者さえ、一人もいなかった。誰も彼もが世俗的な生活をいとなんで、自分自身の問題や家族のことばかり思い煩い、隣人のことはもちろん、神についてさえ、考えようとしていないと告白しあった。
客人たちは互いにそうしたことを話し合い、その結果、キリスト教徒らしからぬ不信心な各自の生活を避難することに一致した。
「では、なぜわれわれはそんな生活をするのでしょう?」と或る青年が叫んだ。「なぜ自分さえよくないと思う生活をするのでしょう?はたしてわれわれには自分で自分の生活を何とか変える力がないのでしょうか?われわれを滅ぼすものは奢侈です、遊惰です、富です、とりわけ慢心と、同胞たちからの孤立とがいけないのです。このことはわれわれ自身も自覚しています。われわれは地位や財産を獲得するために、人間の生活に喜びをもたらすいっさいのものを、放棄しなければなりません。われわれは都会に密集して、われとわが身を柔弱にし、健康を害しているのです。そしていろいろの楽しみがあるにもかかわらず、倦怠に蝕まれ、自分たちの生涯はこんなものではないはずだという後悔にいためつけられつつ死んでゆくのです。
なぜわれわれはそんな生活をするのでしょう?なぜわれわれはこんなふうにして自分の一生や、神から与えられたいっさいの幸福を台なしにするのでしょう?わたしは今までのような生活をしていくのはいやです。せっかくはじめた学問もやめます――だって、学問をしたところで、行きつくところは、今われわれがこうしてかこちあってやりきれない生活以外の何物でもありませんからね。わたしは自分の財産を放棄して、田舎へ行って、貧しいひとびとと一緒に暮らします。彼らと共に働き、自分自身の手で労働することを覚えましょう。もしわたしの学問が貧しいひとびとになんらかのお役に立つなら、喜んでお役に立てましょう。でもそれは村塾とか書物とかを介してではなく、直接彼らと親しく膝つき合わせて実行しようと思うのです。
そうだ、わたしは決心しました」そこに同席して父親を、伺うような眼つきで見上げながら、彼はこう言った。
「おまえの希望は至極もっともだ」と父親は言った。「が、しかし、それは軽率で、同時に無分別というものだ。おまえはまだ世の中ってものを知らないから、それで、すべてのことがそんなに容易に思えるのだ。われわれの眼には何でも美しく映るが、さてそれを実行する段になると、至極複雑で困難なものだ。踏み固められた道を歩くのさえ、なかなか骨が折れるのだもの、まして新しく道を切り拓いて進むなんてことは、こりゃ実に容易ならぬわざだ。そのような新しい道を拓くことができるのは、思慮分別が十分そなわり、人間の到達できるすべてのものを修得した人だけだ。おまえはまだ人生の何たるかを知らないから、新しい道を拓くなんてことを、たわいもないことのように考えているらしいが、それはみんな若さゆえの軽はずみと慢心がさせるわざというものだ。われわれ老人は、おまえたちがとかく血気にはやりたがるのを抑えつけ、われわれの経験でこれを指導してゆくという点で、必要な存在なんだよ。だから、おまえたち若者は、われわれの経験を利用するために、われわれに従うべきだ。おまえたちの活動すべき檜舞台はまだまだこれからずっと先だいまはただ成長し発展すればそれでよいのだ。成長するがいい、十分に勉強すべきだ。自分の両脚でしか(ヽヽ)と立ち上がり牢固たる信念ができて、もう大丈夫できそうだと思えるようになったら、その新しい生活をはじめるがいい。だが今は、おまえのためを思って指導している人の言うことを聞くべきであって、人生の新しい道を拓くべき時ではない」
青年は沈黙した。年長の客人たちはこの父親の言葉に賛同した。
「そうです、そのとおりです」中年の妻帯者が、青年の父親に向って言った。「実際、青年が、人生経験を持たずに、新しい道を拓こうとしても、間違いをおかしかねませんし、そんな人の決心なんて強固なものとはいえません。しかし、われわれ一同の生活が良心に反したものであり、われわれになんらの幸福をももたらしていないという点では、皆の意見が一致していたではありませんか。ですから、そのような生活から脱却したいという願望を、正当なものと認めないわけにはゆきませんな。
若い者なら、自分の空想を理性の帰結と取るかもしれませんが、しかし、わたしは若い者ではありませんからね。ひとつわたし自身のことをお話ししましょう。今晩いろいろとご高説を承っているうちに、ちょうどそれと同じような考えが、わたしの頭にも浮かんできたのです。わたしの現在送っている生活が、わたしに良心の平和と幸福を与えてくれないことは明らかです。経験も理性もそのことをわたしに示してくれます。ではいったい何をわたしは待っているのでしょう?われわれは朝から晩まで家族のためにあくせくしているが、さてその結果たるや、おのれも家族の者もみんな神の御心に反した生活をして、ますます罪業の淵に深く沈んでゆくばかりはありませんか。家族のために汲々としても、家族はいっこうによくなりません。というわけは、家族のために尽くすのが善ではないからにほかなりません。ですから、わたしはしょっちゅう考えつづけているのです。いっそのこと、自分の生活をがらりと変えてしまって、この若い方が言われるようにしたほうがよくはないだろうか、――妻子のことを思い悩むのをふっつりやめて、ただただ自分の霊のことばかりを考えるのですな。パウロが『妻を持てる者は妻のことを思い、妻を持たざる者は主のことを思う』と言われたが、もっともなことです」
中年男がこう言い終わるか終わらぬうちに、彼の妻をはじめ、一座の婦人は、いっせいに彼にくってかかった、
「そんなことはとっくに考えなけりゃならなかったんです」と中年の婦人は言った。「乗りかかった船じゃありませんか。そんなことでは、誰だって家族をささえて養ってゆくのが苦しくなった時、自分の霊を救いたくなったと言い出すでしょうよ、そんなのは欺瞞です、卑劣というものです。いいえ、人間は家族の中にあってこそ、神の御心にかなった生活をすることができるはずです。そんな具合にして自分だけ霊を救うなんてことは、いとたやすい生き方ですものね。だいいち、そんな行為に出ることは、キリストの教えにそむいたやり方ですわよ。神様は他人を愛せとお命じになりましたのに、あなたときたら、その神様をだしに使って、他人を傷つけようとなさるのね。いいえ、妻帯者には一定の義務というものがあります。ですから、それを無視するわけにはまいりません。でも、家族の方々が一本立ちできるようにおなりになったら、その時はおのずから別問題です。その時こそは、あなたのご勝手になすったらいいでしょう。誰だって家族に強制する権利なんか持ってはおりませんからね」
しかし妻を持った男はこれに賛成しなかった。
「わたしは家族を棄てようとなんか思っておりません」こう彼はいった。「ただわたしは、家族の者を、ありふれた俗物にしつけちゃならんと思うのです。つまりその、先ほど私たちが話したように、自分の快楽のために生活するような代物にではなく、子供の時から、困苦欠乏と勤労と相互扶助に――なによりも、すべての人との兄弟愛的な生活に――馴れるように教育しなければなりません。そして、そのためには、地位や財産を放棄してしまうことが何より肝腎なのです」
「あなたはご自分で神様の教えにそむいた生活をしていらっしゃるくせに、なにも他人の生活までわざわざおこわしになる必要はありませんわよ」と妻がかんかんになって叫んだ。「あなたは子供の時から、あなたのすき勝手な生活に終始しておいでになったんじゃありませんか、それだのに、自分の子供や家族の者を、苦しめようとなさるんですの?そんなことをなさらずに、ほっておいて気ままに成人させて、それからめいめいの自分の好きなことをさせたらいいんです。何も強制がましいことはしないほうがいいのですよ」
夫は口をつぐんだ。すると、同席していた一人の老人が、彼の弁護に立った。
「いや、かりにですよ」と老人は言った。「家族持ちの人間が、自分の生活をある程度の裕福さに馴らしておいて、突然、それをすべて失わせたりするのが、いけないことだとしてもですな。事実、子供の教育は一度はじめた以上、それをすべてぶちこわしてしまうより、すっかり全うさせたほうがいいですからね。まして、子供たちが成長したら、自分で最もいいと思われる道をたどることでしょうしね。一家を擁している者が、何ら犠牲を払わずに生活をいっぺんさせてしまうことは容易じゃない、いやむしろ、ほとんど不可能だ。その点は私にも異議はありません。これはとりもなおさず、神様がわれわれ老人にお命じになったことなのです。まァひとつ、自分のことを話さしていただきましょう。わたしは現在何の義務もないその日その日を送っております。実際の話が、もっぱらこの『おなか』に奉仕して生きているしだいです。食う、飲む、眠る、といっただけの、われながらあきれる生活をしています。わたしもそろそろこんな生活を捨てて、財産もきれいさっぱりと譲り渡し、せめて死ぬ前のちょっとの間でもいいから、神様がお命じになったキリスト教徒らしい生活をやってみる潮時なんです」
しかし、この老人の言葉にも、賛成する者はなかった。老人の姪も、名付親の婦人も(この婦人のもとで彼は自分の子供たち全部を洗礼し、祭日にはいつも何か贈物をするのを例としていた)、息子も席に居合わせたのだが――彼らは一人残らず、老人に反対した。
「そりゃ違います」と息子は言った。「お父さんはこんにちまで働きつづけていらしたのですから、もうゆっくりと休養なさるのがほんとうで、何もわれとわが身をお苦しめになるには及びませんよ。お父さんはもう六十年もアクの強い生き方をしていらしたのだから、今さらそれを抜け出すわけにはいきませんよ。そんなことをしようとなさればなさるほど、むなしく自分自身を苦しめることになりますよ」
「そうです、ほんとにそうですよ」と姪が相槌をうった。「生活が苦しくなってくれば、機嫌だってわるくなるでしょうし、そのためにぶつぶつ口小言をおっしゃるようになり、よけいに罪をお重ねになる結果を見るにきまっていますよ。神様は慈悲深くていらっしゃいますから、どのような罪人でも赦してくださいます。あなたのようないい心がけのお方は、なおさらですわよ、叔父さま!」
「そうですとも、それに今さらわれわれがそんなことをしたって何になりましょう!」叔父と同じ年ごろの老人が補足した。「あなたもわたしも互いに、余命いくばもないではありませんか。今さら新しいことをはじめて何になります?」
「ああ、何という不思議なことでしょう!」と今まで一言も口をきかなかった客が言い出した。
「実に不思議ですなあ!誰もが、やれ神様の御心にかなうように生活するのは結構なことだとか、やれわれわれはよくない生活をしているとか、やれ精神的にも肉体的にも苦しんでいるとかいっているが、そのくせいざ実行という具体的な問題になると、子供に打撃を与えてはならないから、神の御心にそむいて、従来のままに教育しなければならないということになってしまう。若い者はどうかというと、これまた両親の命にそむくことなく、神様の御心にそぐわない今までどおりの生活をしなくてはならないという。さらに、世帯を持った男もまた、妻子に心配をかけないために、神の御心にそぐわない、今までどおりの生活をしなくてはならないといい、また老人は、長い間の因襲がどうだとか、余命いくばもないとか、なんとかいってからに、どこにも新しい一歩を踏み出してはいけないっていうしまつだ。結局、誰一人心にかなった正しい生活をすることはできないので、ただ口先でとやかく論じあうだけが関の山ってわけなんだ」
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『光あるうちに光の中を歩め』
トルストイ
the face -
den 21.05.2006 edit
"The face is a mystery in and of itself: a sacred thing. Though it belongs to the body, though it punctuates an outline, it is also the intangible, autonomous extremity of the human form."
http://www.mep-fr.org/us/actu/actu_pg.htm
http://www.mep-fr.org/us/actu/actu_pg.htm


