存在意義としての棘・第三者 -
1 初めからその男が僕は好きになれなかった。生理的にどうしても受け付けられないものがあった。彼の笑みはどこか含みがあるし、声がねっとり湿っていた。きっと同性愛なのだろう、と僕は踏んだ。でも初めて対面したとき、僕は彼のそのコートを誉めた。「いいコートですね」と、僕は言った。他に誉めるものもなく、(まるで女性を誉めるように)彼の身につけていた洋服を誉めたのだが、「これは2シーズン遅れなんだ」と、彼は言った。それはどこか癪にさわる答えだった。
彼は彼の方で、生理的に中国人が気に入らないようであった。そして根からの人種主義者であることをまるで隠す様子もなく、その男は悪臭を四面八方に放った。明らかに二等の人間を見る眼差しで、はじめから僕の価値を一方的に決めつけていた。そのうえに彼は、トイレの消臭剤をシュッシュッと吹きかけるように、形式的な丁寧さを装ってみせたが、僕にはもちろんその裏の本意が見え透けていた。彼も敢えて見え透けるほどのスプレーしかかけなかった。
僕らは一目で憎悪に落ちた。それはまるで運命の女性と一目で恋に落ちるような性質の雷だったが、僕のその男のあいだに落ちたのは憎悪の雷だった。僕は同性愛かつ人種主義者の彼をどうしても許せなかったし、彼は中国人の顔をして仕立てのいいスーツを着ている僕がどうしても許せなかった。僕らは瞬時にして暗闘状態に突入した。僕らはどちらも黙っていた。この種の恥ずべき差別感情を僕も彼も一般社会の常識に照会するわけにいかなかった。第三者の裁判にかけるということは、自らの非を認めてしまう事に他ならなかった。憎悪はまるで独立した生き物のように、僕の心に生息した。考えれば考えるほど、血が沸騰した。それは巨大なエネルギーだった。エネルギーの源に入り込んでいけば、心に刺さったな棘にたどり着くだろうと思った。棘は小さく、しかし致命的に刺さっていた。棘を抜き去ることは同時に命を失うような気がした。だから僕も彼も黙っていた。それは我々の決闘だった。銃弾は一発(丶丶)しか込められていないのだ。
***
2 闘いの火ぶたが切って落とされたのは、我々が代理戦争の駒を見つけた時だった。ひとつの小さな事件を通して、僕らはあらゆる人間を駒に見立て、ゲームに巻き込み、戦さを展開した。相手が倒れるまでは自分も絶対に譲れない。疲労が頂点を迎えても我々はどちらも止まることを知らなかった。譲歩するということは、すなわち自己の決壊を意味した。我々の存在意義は今や「自分がいかに正しいか」を証明する事の中に横たわっていた。それ以外のすべてはまやかしに過ぎなかった。こうして、我々は証明(丶丶)において生まれた善悪を振りかざし、闘いをつづけた。
こうして、何時終わるともしれない闘いが50年続いた。遠い過去の出来事として、今振り返る僕の心境はこうだー
それは「わたし」対「かれら」ではない。われわれは、われわれとかれらとその他多くのもので構成されており、かれらは、かれらとわれわれとその他多くのもので構成されている。大切な事は、われわれのなかのかれらとかれらがまず手を結び、かれらのなかのわれわれとわれわれがまず手を結ぶことだ。証明とは常に第三者に対して行なわれる行為であり、われわれとかれらの本当の敵は、そんなものがあるとすれば、それは「第三者」なのだ、と。
den 21.03.2008 edit
1 初めからその男が僕は好きになれなかった。生理的にどうしても受け付けられないものがあった。彼の笑みはどこか含みがあるし、声がねっとり湿っていた。きっと同性愛なのだろう、と僕は踏んだ。でも初めて対面したとき、僕は彼のそのコートを誉めた。「いいコートですね」と、僕は言った。他に誉めるものもなく、(まるで女性を誉めるように)彼の身につけていた洋服を誉めたのだが、「これは2シーズン遅れなんだ」と、彼は言った。それはどこか癪にさわる答えだった。
彼は彼の方で、生理的に中国人が気に入らないようであった。そして根からの人種主義者であることをまるで隠す様子もなく、その男は悪臭を四面八方に放った。明らかに二等の人間を見る眼差しで、はじめから僕の価値を一方的に決めつけていた。そのうえに彼は、トイレの消臭剤をシュッシュッと吹きかけるように、形式的な丁寧さを装ってみせたが、僕にはもちろんその裏の本意が見え透けていた。彼も敢えて見え透けるほどのスプレーしかかけなかった。
僕らは一目で憎悪に落ちた。それはまるで運命の女性と一目で恋に落ちるような性質の雷だったが、僕のその男のあいだに落ちたのは憎悪の雷だった。僕は同性愛かつ人種主義者の彼をどうしても許せなかったし、彼は中国人の顔をして仕立てのいいスーツを着ている僕がどうしても許せなかった。僕らは瞬時にして暗闘状態に突入した。僕らはどちらも黙っていた。この種の恥ずべき差別感情を僕も彼も一般社会の常識に照会するわけにいかなかった。第三者の裁判にかけるということは、自らの非を認めてしまう事に他ならなかった。憎悪はまるで独立した生き物のように、僕の心に生息した。考えれば考えるほど、血が沸騰した。それは巨大なエネルギーだった。エネルギーの源に入り込んでいけば、心に刺さったな棘にたどり着くだろうと思った。棘は小さく、しかし致命的に刺さっていた。棘を抜き去ることは同時に命を失うような気がした。だから僕も彼も黙っていた。それは我々の決闘だった。銃弾は一発(丶丶)しか込められていないのだ。
***
2 闘いの火ぶたが切って落とされたのは、我々が代理戦争の駒を見つけた時だった。ひとつの小さな事件を通して、僕らはあらゆる人間を駒に見立て、ゲームに巻き込み、戦さを展開した。相手が倒れるまでは自分も絶対に譲れない。疲労が頂点を迎えても我々はどちらも止まることを知らなかった。譲歩するということは、すなわち自己の決壊を意味した。我々の存在意義は今や「自分がいかに正しいか」を証明する事の中に横たわっていた。それ以外のすべてはまやかしに過ぎなかった。こうして、我々は証明(丶丶)において生まれた善悪を振りかざし、闘いをつづけた。
こうして、何時終わるともしれない闘いが50年続いた。遠い過去の出来事として、今振り返る僕の心境はこうだー
それは「わたし」対「かれら」ではない。われわれは、われわれとかれらとその他多くのもので構成されており、かれらは、かれらとわれわれとその他多くのもので構成されている。大切な事は、われわれのなかのかれらとかれらがまず手を結び、かれらのなかのわれわれとわれわれがまず手を結ぶことだ。証明とは常に第三者に対して行なわれる行為であり、われわれとかれらの本当の敵は、そんなものがあるとすれば、それは「第三者」なのだ、と。
脚のない机 -
その音楽ホールには千人以上の人間がいたが、まともな人間はひとりもいなかった。とても前衛的(丶丶丶)な作曲家が胡琴やら琵琶やらの中国民族楽器のオーケストラのために書いたという奇怪な音楽がステージ上で演奏されていた。二・八分けの中国人指揮者はとても誇らしげに指揮棒を振っていたが、壇下には黒ずめの中国人演奏家が二百人くらいゴミのように座っていた。アジア人は本当に冴えない、と僕は思った。ただ数が多いだけだ。もし人間が犬だとしたら、アジア種はきっと人気がないだろうと思った。実際、アジアの犬だって(丶丶丶丶丶丶丶丶)冴えないじゃないか。僕はダルメシアンになりたいと思った。それでも、黒ずめの中国人演奏家のほうは100%の熱意で、前衛的な民族音楽を観客の耳に訴えていた。我々はここまで進歩したのですよ、とでも証明したそうだった。ある意味ではそれはまたプロパガンダの音楽だった。二胡やら琵琶やら喇叭やら木琴は恐らく何リットルもの汗をかきながら、音を作り続けた。突然盛り上がっては、急に静まりかえる、例の近代音楽を。民族楽器によるポスト・クラシック音楽を。それは僕に「脚のない机」を想像させた。その音楽には由来(丶丶)がなかった。
事実を包み隠すためだろうか、二・八分けの中国人指揮者はいきなり観客のほうを振り返ってにこやかに踊り始めた。喇叭の音をつり上げ、踊らせ、さらにつり上げるパフォーマンスだった。それは観客に拍手を強要した。こんなコンサートに来る観客の方も白痴なのでサーカスのような盛大な拍手が送られた。僕は両手を膝の上に並べて何とかやり過ごそうとしたが、結局気まずくなって拍手した。僕はダルメシアンにはなれないのだ。だが、それで決定的に嫌気がさし、その後僕は音楽に集中できなくなった。僕は壇上に駆け上がってオーケストラのいちばん美人な子にキスをしようかと思った。観客は唖然とし、僕はオーケストラの男連中に取り押さえられるだろう。でもそんなことはいっこうに構わず、僕は候補の女の子を目で探した。ひとり、ふたり、どの子もどうしようもなく皆チュウゴクジンに見えた・・・・・・。そうしているうちにようやく休憩時間になり、僕は人ごみを押しのけて退場した。
テムズ河にかかる橋を渡ると少し肌寒い風が吹いた。遠くの方には聖ポール大寺院が見え、何艘かのボートが静かに流れていた。左手には大きな観覧車がぴかぴか光りながら回っていた。橋の向こうのほうからストリート・ミュージシャンの吹くサックスの音が聞こえた。僕はようやく真実味のあるものに帰ってきた気がした。ポケットの硬貨を何枚かやろうかと思ったが、近づいてみると演奏しているのは白人の男だったので、やっぱりやめることにした。
den 15.03.2008 edit
その音楽ホールには千人以上の人間がいたが、まともな人間はひとりもいなかった。とても前衛的(丶丶丶)な作曲家が胡琴やら琵琶やらの中国民族楽器のオーケストラのために書いたという奇怪な音楽がステージ上で演奏されていた。二・八分けの中国人指揮者はとても誇らしげに指揮棒を振っていたが、壇下には黒ずめの中国人演奏家が二百人くらいゴミのように座っていた。アジア人は本当に冴えない、と僕は思った。ただ数が多いだけだ。もし人間が犬だとしたら、アジア種はきっと人気がないだろうと思った。実際、アジアの犬だって(丶丶丶丶丶丶丶丶)冴えないじゃないか。僕はダルメシアンになりたいと思った。それでも、黒ずめの中国人演奏家のほうは100%の熱意で、前衛的な民族音楽を観客の耳に訴えていた。我々はここまで進歩したのですよ、とでも証明したそうだった。ある意味ではそれはまたプロパガンダの音楽だった。二胡やら琵琶やら喇叭やら木琴は恐らく何リットルもの汗をかきながら、音を作り続けた。突然盛り上がっては、急に静まりかえる、例の近代音楽を。民族楽器によるポスト・クラシック音楽を。それは僕に「脚のない机」を想像させた。その音楽には由来(丶丶)がなかった。
事実を包み隠すためだろうか、二・八分けの中国人指揮者はいきなり観客のほうを振り返ってにこやかに踊り始めた。喇叭の音をつり上げ、踊らせ、さらにつり上げるパフォーマンスだった。それは観客に拍手を強要した。こんなコンサートに来る観客の方も白痴なのでサーカスのような盛大な拍手が送られた。僕は両手を膝の上に並べて何とかやり過ごそうとしたが、結局気まずくなって拍手した。僕はダルメシアンにはなれないのだ。だが、それで決定的に嫌気がさし、その後僕は音楽に集中できなくなった。僕は壇上に駆け上がってオーケストラのいちばん美人な子にキスをしようかと思った。観客は唖然とし、僕はオーケストラの男連中に取り押さえられるだろう。でもそんなことはいっこうに構わず、僕は候補の女の子を目で探した。ひとり、ふたり、どの子もどうしようもなく皆チュウゴクジンに見えた・・・・・・。そうしているうちにようやく休憩時間になり、僕は人ごみを押しのけて退場した。
テムズ河にかかる橋を渡ると少し肌寒い風が吹いた。遠くの方には聖ポール大寺院が見え、何艘かのボートが静かに流れていた。左手には大きな観覧車がぴかぴか光りながら回っていた。橋の向こうのほうからストリート・ミュージシャンの吹くサックスの音が聞こえた。僕はようやく真実味のあるものに帰ってきた気がした。ポケットの硬貨を何枚かやろうかと思ったが、近づいてみると演奏しているのは白人の男だったので、やっぱりやめることにした。
僕の世代 -
den 14.03.2008 edit
なにかを書く過程で自分を包み隠してしまうのは残念なことだ。「虫けらの死」と「切符を加えた女」を読み返してそう思った。物語を語るのはむずかしい。過去ではなく、現在としての生きた物語。心情を一刻一刻丁寧に書き記すこと、かつ物語に事件性が備わっていることーこれは相反する命題だ。Look BackなのかLook Forwardなのか。見返るのは自分であり、見越すのは自分が作り出した誰かだ。
偽りのないように書くこと。誤摩化さない、絶対に誤摩化さない、死んでも誤摩化さないこと。胡散臭かったらすぐに止めたほうがいい。
僕の世代は、無の世代だー70年代後半から80年代前半の若者たち。僕らにとっては「絶望」や「嘔吐」すら古く、かといって80年代後半の子どもたちのように「仮想空間」へ逃避することも現実味がない。僕らの世代は(そんなものがあるとしたら)、死にながら生きている。僕らは無表情だ。絶望する力もない。苦い顔をするのもバカらしい。僕らは、能面のように、死体を引きずって生きているのだ。
偽りのないように書くこと。誤摩化さない、絶対に誤摩化さない、死んでも誤摩化さないこと。胡散臭かったらすぐに止めたほうがいい。
僕の世代は、無の世代だー70年代後半から80年代前半の若者たち。僕らにとっては「絶望」や「嘔吐」すら古く、かといって80年代後半の子どもたちのように「仮想空間」へ逃避することも現実味がない。僕らの世代は(そんなものがあるとしたら)、死にながら生きている。僕らは無表情だ。絶望する力もない。苦い顔をするのもバカらしい。僕らは、能面のように、死体を引きずって生きているのだ。
切符をくわえた女 -
“Excuse me!" ーバス停に立っていると突然後ろから怒鳴られた。振り返るとベビーカーを押した女性が立っていた。彼女はひどく苛立っていたが、目は僕を見ていなかった。とにかく僕の前に止まった14番のバスに乗りたいようだった。でも、僕は単にそこにいた(丶丶丶丶丶)という理由だけで、苛立をなすり付けられるのは不当だと思った。子を抱えた自分は譲歩に値するのであり、つねに正当なのであり、道を譲らぬあなた方は道徳の敵だ、と信じて疑わないその表情に僕は耐えられなかった。そのような母性は、世界を敵にまわしてでも14番に乗りたい、という狂気だった。しかも僕と彼女とバスの乗り口は「斜め」の位置関係で、僕は何もバスの乗口の真ん前に突っ立てたいたわけではない。彼女は近道をするのに僕に喧嘩を売ったわけだ。近道のために!そこに彼女の正当性と僕の正当性が衝突した。しかしー現実には、僕は聞こえもしないような弱い声で"Sorry"と言って後ずさってしまった。バスは出発の間際だったし、第一、何と言って良いかわからなかった。「君と僕とバスは、斜め(丶丶)の位置関係なんですよ」とでも……?彼女は「だからなによ」とでも言うに違いない。
僕は自分の反射的な善意を悔いた。人は闘うべき時は闘うべきなのだ。それが女であろうと、子であろうと、或いは獰猛な悪魔であろうと、相手によって自らの判断を誤っていはいけない。
が、時はすでに遅かった。僕はすでに道を譲っていたし、彼女はベビーカーを押してバスの方に急いでいた。ふと、僕は「切符をくわえた女」を思いだした。口に切符をくわえてベビーカーを押す女に遭遇したのが二日前で、その時も僕は背中にぞっとするような悪感を覚えたのだ。物を口にくわえるという行為には、気のせいかもしれないが、両手を自由にして他の動作をさせる以上の不純な動機があるように僕には思える……。そのような事を考えていると、ガンッと目の前でものすごい音がした。見ると、先ほどの女がバスの両ドアに挟まれ、ベビーカーごと必死にもがいていた。そしてバスの中には彼女の夫らしき男が、もう一台の双子用ベビーカーを手に呆然と立っていた(彼女は大勢の連れがいたわけだ)。数秒の間、場はシンと静まりかえった。狂った女は一人でもがいていた。誰も救いの手を差し伸べはしなかった。なぜか、僕は「ざまあみろ、中産階級!」と心の中で思った。
den 14.03.2008 edit
“Excuse me!" ーバス停に立っていると突然後ろから怒鳴られた。振り返るとベビーカーを押した女性が立っていた。彼女はひどく苛立っていたが、目は僕を見ていなかった。とにかく僕の前に止まった14番のバスに乗りたいようだった。でも、僕は単にそこにいた(丶丶丶丶丶)という理由だけで、苛立をなすり付けられるのは不当だと思った。子を抱えた自分は譲歩に値するのであり、つねに正当なのであり、道を譲らぬあなた方は道徳の敵だ、と信じて疑わないその表情に僕は耐えられなかった。そのような母性は、世界を敵にまわしてでも14番に乗りたい、という狂気だった。しかも僕と彼女とバスの乗り口は「斜め」の位置関係で、僕は何もバスの乗口の真ん前に突っ立てたいたわけではない。彼女は近道をするのに僕に喧嘩を売ったわけだ。近道のために!そこに彼女の正当性と僕の正当性が衝突した。しかしー現実には、僕は聞こえもしないような弱い声で"Sorry"と言って後ずさってしまった。バスは出発の間際だったし、第一、何と言って良いかわからなかった。「君と僕とバスは、斜め(丶丶)の位置関係なんですよ」とでも……?彼女は「だからなによ」とでも言うに違いない。
僕は自分の反射的な善意を悔いた。人は闘うべき時は闘うべきなのだ。それが女であろうと、子であろうと、或いは獰猛な悪魔であろうと、相手によって自らの判断を誤っていはいけない。
が、時はすでに遅かった。僕はすでに道を譲っていたし、彼女はベビーカーを押してバスの方に急いでいた。ふと、僕は「切符をくわえた女」を思いだした。口に切符をくわえてベビーカーを押す女に遭遇したのが二日前で、その時も僕は背中にぞっとするような悪感を覚えたのだ。物を口にくわえるという行為には、気のせいかもしれないが、両手を自由にして他の動作をさせる以上の不純な動機があるように僕には思える……。そのような事を考えていると、ガンッと目の前でものすごい音がした。見ると、先ほどの女がバスの両ドアに挟まれ、ベビーカーごと必死にもがいていた。そしてバスの中には彼女の夫らしき男が、もう一台の双子用ベビーカーを手に呆然と立っていた(彼女は大勢の連れがいたわけだ)。数秒の間、場はシンと静まりかえった。狂った女は一人でもがいていた。誰も救いの手を差し伸べはしなかった。なぜか、僕は「ざまあみろ、中産階級!」と心の中で思った。
虫けらの死 -
ああ!ひどいことをしてしまった。その虫けらを叩き潰した瞬間、僕は殺生した事を後悔した。僕は敬虔な仏教徒というわけではないが、今回に限って言えば、その虫けらを殺す必要がなかった。ぶんぶんと側を飛んでいるのが目障りだったので、半ば無意識に手で叩き潰してしまった。なのに彼は逃げもしなかった。ただ一瞬のうちに、巨大な掌が飛んできて、不必要に(丶丶丶丶)羽や身体を粉々にされたわけだ。そんな風にして常日頃から自分が殺傷していることを思うと、僕は気が滅入った。そして殆どの時は気がつきもせず、我がアジェンダばかりを至上の命題と掲げ、道ばたの蟻んこや草花を踏みつぶして来ているのだ。コツコツコツコツと鳴る上等な靴で、急ぎ足で、僕は花や虫ばかりでなく大勢の僕より不幸な人間を下敷きにして、鼻歌を歌いながら歩いているのだ。突然、僕はその虫を救いたい、と思った。僕の広い掌の上で、小さな黒いドットにすぎぬ彼はまだ手足をジタバタさせていた。僕の手は加害者の手から慈善のそれへと変わっていたが、彼はそんな偽善から逃れる力もなく、ただそこでジタバタしていた。死ぬのは時間の問題だった。僕がどんな手を尽くそうとも彼を救うことはできないのは明らかだった。最先端の医療でも、救急車をよんでも、あらゆる面からして手遅れだった。彼はただ死を待つしかなかったし、僕には見ているより他なかった。でも「せめて自分が医者だったらよかったのに」と僕は思った。小さな手術台で、その小さな身体を切り開き、羽を繋ぎ合わせ、傷を縫い合わせてあげることができたらー。厳密に言えば、虫けらを救いたい気持ちよりも僕は自分の無力感をどうにかしたかった。僕は彼の半生を想像した。おそらく、僕が怠惰にも放置していた食物を糧に生きてきたのだろう。あまり掃除しない、ゴミ箱の裏辺りに卵が産卵されていたのかもしれない。暖かな暖房で勘違いして、うっかり生まれて来てしまったのにちがいない。そして僕の小さなアパートで、キッチンと寝室とリビングを飛び回りながら、それを「世界」と思ったに違いない。そんな彼にとっては、僕は唯一の他の生命であり、他者であった。彼は僕という他者を対象に「存在」していた。そして、その存在の生と死は、文字どおり僕の掌の中にあった。彼は僕の影であった。
一瞬のうちのそんなことを考えると、僕はいたたまれない悲しい気持ちになった。僕は医者ではないので、せめてできることは、レクイエムをかけてやることくらいだった。モーツァルトの鎮魂歌を。僕が自らの死に際に望むことを、分身の彼にも捧げてやることだった。彼の魂が消えていく瞬間に僕の送れる最大の弔いだった。なぜかそれはとても当然のことに思えた。彼の不当の死は、モーツァルトの価値がある。奇しくも目の前のパソコンを見ると、iTunesの次曲はウィーン交響楽団のレクイエム第一楽章にカーソルが選択されていた。僕はこの偶然に喜びと神妙さの入り交じった複雑な気分になった。そして彼はレクイエムを最後まで聴き終える余力があるだろうか、と考えた。たぶん最初の曲の途中で息絶えるだろうと僕は憶測した。虫けらはもう前足が動かず、後ろの一番太い二本の足が時折バタバタする程度に弱っていた。触角から上半身までのすべてが小さく縮まり始めていた。僕は急いでモーツァルトをかけた。そして最も立体的に左右か偏りなく音が聴こえるキーボード中央の位置に掌を差し出した。左右のスピーカーががんがん鳴っていた。虫けらはジタバタしていた。僕は黙祷を捧げようかと思ったが、それはやりすぎなのでやめた。それに僕は彼の最期を見届けたかった。そうでなければ僕の責任は果たされないと思った。孤独に死にゆく者、という意味では生命は生命に変わりなかった。彼は虫けらかもしれないが、彼は人間でもよかった。
しかし虫けらは意外としぶとく生きた。序曲が半分に差さしかかっても、一向に息絶える様子は見せず、むしろ死に損ねている苦しさが全面に顕われてきた。僕はひどい自己嫌悪に陥った。もがき苦しむ彼には、希望がなく、ちぎれた羽があるだけだった。そして彼は声も挙げられなかった。仲間もいなかった。最初から最期まで僕に弄ばれた傲慢な事実があるだけだ!僕は涙がでそうになった。しかし涙がでない事実にまた僕は僕という人間に絶望した。
僕は虫けらを真白いティッシュの上に移し、指先で捻り潰した。疑いの余地無いほど強い力で彼を瞬時に抹殺した。ティッシュを丸く包み、ごみ箱に捨てた。墓は作らなかった。僕は作文を書く他に何をすればよいのかわからなかった。
den 12.03.2008 edit
ああ!ひどいことをしてしまった。その虫けらを叩き潰した瞬間、僕は殺生した事を後悔した。僕は敬虔な仏教徒というわけではないが、今回に限って言えば、その虫けらを殺す必要がなかった。ぶんぶんと側を飛んでいるのが目障りだったので、半ば無意識に手で叩き潰してしまった。なのに彼は逃げもしなかった。ただ一瞬のうちに、巨大な掌が飛んできて、不必要に(丶丶丶丶)羽や身体を粉々にされたわけだ。そんな風にして常日頃から自分が殺傷していることを思うと、僕は気が滅入った。そして殆どの時は気がつきもせず、我がアジェンダばかりを至上の命題と掲げ、道ばたの蟻んこや草花を踏みつぶして来ているのだ。コツコツコツコツと鳴る上等な靴で、急ぎ足で、僕は花や虫ばかりでなく大勢の僕より不幸な人間を下敷きにして、鼻歌を歌いながら歩いているのだ。突然、僕はその虫を救いたい、と思った。僕の広い掌の上で、小さな黒いドットにすぎぬ彼はまだ手足をジタバタさせていた。僕の手は加害者の手から慈善のそれへと変わっていたが、彼はそんな偽善から逃れる力もなく、ただそこでジタバタしていた。死ぬのは時間の問題だった。僕がどんな手を尽くそうとも彼を救うことはできないのは明らかだった。最先端の医療でも、救急車をよんでも、あらゆる面からして手遅れだった。彼はただ死を待つしかなかったし、僕には見ているより他なかった。でも「せめて自分が医者だったらよかったのに」と僕は思った。小さな手術台で、その小さな身体を切り開き、羽を繋ぎ合わせ、傷を縫い合わせてあげることができたらー。厳密に言えば、虫けらを救いたい気持ちよりも僕は自分の無力感をどうにかしたかった。僕は彼の半生を想像した。おそらく、僕が怠惰にも放置していた食物を糧に生きてきたのだろう。あまり掃除しない、ゴミ箱の裏辺りに卵が産卵されていたのかもしれない。暖かな暖房で勘違いして、うっかり生まれて来てしまったのにちがいない。そして僕の小さなアパートで、キッチンと寝室とリビングを飛び回りながら、それを「世界」と思ったに違いない。そんな彼にとっては、僕は唯一の他の生命であり、他者であった。彼は僕という他者を対象に「存在」していた。そして、その存在の生と死は、文字どおり僕の掌の中にあった。彼は僕の影であった。
一瞬のうちのそんなことを考えると、僕はいたたまれない悲しい気持ちになった。僕は医者ではないので、せめてできることは、レクイエムをかけてやることくらいだった。モーツァルトの鎮魂歌を。僕が自らの死に際に望むことを、分身の彼にも捧げてやることだった。彼の魂が消えていく瞬間に僕の送れる最大の弔いだった。なぜかそれはとても当然のことに思えた。彼の不当の死は、モーツァルトの価値がある。奇しくも目の前のパソコンを見ると、iTunesの次曲はウィーン交響楽団のレクイエム第一楽章にカーソルが選択されていた。僕はこの偶然に喜びと神妙さの入り交じった複雑な気分になった。そして彼はレクイエムを最後まで聴き終える余力があるだろうか、と考えた。たぶん最初の曲の途中で息絶えるだろうと僕は憶測した。虫けらはもう前足が動かず、後ろの一番太い二本の足が時折バタバタする程度に弱っていた。触角から上半身までのすべてが小さく縮まり始めていた。僕は急いでモーツァルトをかけた。そして最も立体的に左右か偏りなく音が聴こえるキーボード中央の位置に掌を差し出した。左右のスピーカーががんがん鳴っていた。虫けらはジタバタしていた。僕は黙祷を捧げようかと思ったが、それはやりすぎなのでやめた。それに僕は彼の最期を見届けたかった。そうでなければ僕の責任は果たされないと思った。孤独に死にゆく者、という意味では生命は生命に変わりなかった。彼は虫けらかもしれないが、彼は人間でもよかった。
しかし虫けらは意外としぶとく生きた。序曲が半分に差さしかかっても、一向に息絶える様子は見せず、むしろ死に損ねている苦しさが全面に顕われてきた。僕はひどい自己嫌悪に陥った。もがき苦しむ彼には、希望がなく、ちぎれた羽があるだけだった。そして彼は声も挙げられなかった。仲間もいなかった。最初から最期まで僕に弄ばれた傲慢な事実があるだけだ!僕は涙がでそうになった。しかし涙がでない事実にまた僕は僕という人間に絶望した。
僕は虫けらを真白いティッシュの上に移し、指先で捻り潰した。疑いの余地無いほど強い力で彼を瞬時に抹殺した。ティッシュを丸く包み、ごみ箱に捨てた。墓は作らなかった。僕は作文を書く他に何をすればよいのかわからなかった。
こよなく愛する -
だんだん、自分が大人になってきたのが感じられる。能書きなしで自分の欲しいもの、好きなものが自分でわかるようになった。その時々のタイミングで自分の欲しいものは何か、自覚して満足することができるようになったのは、何が欲しいのかもわからずにただ鬱蒼とした気分でいるより百倍くらいいい。月曜日の朝の効率性ーすばやい移動と仕事処理、その週の要点が適切にまとめられたレポート、有能なアシスタント、そして昼前のダブル・マッキアート、カフェと新聞;夕方のまだ混まないジム、健康的な男女、ヘッドフォンからの音楽、運動して汗を流す;早めのサパー、食材を切り分けながら冷たい白ワインを一杯;くだらないテレビを観る週明けの夜。火曜日の朝は国際電話で諸用を片付ける。水曜の午後は建築のワークショップ。デザイン・チームと知恵を絞って都市計画。木曜日の夜はひとりでクラシック・コンサート、途中休憩で誰かと会話して、終了後真っ先に帰る。金曜日の夜はスーツのまま、パーティに参加。シャンパンとバンド。二次会でウィスキー、アーティストの友達と落ち合う。土曜日の朝はマーケットで野菜等食材を購入ーとびきり美味いランチを仕込む。午後はハイドパークで乗馬、ノッティングヒルで古いLPを買う。帰宅後ジャズ(30〜40年代)を聴きながら、夜9時には床についてたっぷり睡眠を補う。日曜日の朝はカフェ・ラテ。洗濯物を干して、読書。携帯電話の電源は切っておく。月に一回くらい海外出張。温かい季節には彼女とリゾートや奥地に旅行する。寒い季節には帰郷して家族と集う。鍋とカニ、築地市場の刺身。
den 10.03.2008 edit
だんだん、自分が大人になってきたのが感じられる。能書きなしで自分の欲しいもの、好きなものが自分でわかるようになった。その時々のタイミングで自分の欲しいものは何か、自覚して満足することができるようになったのは、何が欲しいのかもわからずにただ鬱蒼とした気分でいるより百倍くらいいい。月曜日の朝の効率性ーすばやい移動と仕事処理、その週の要点が適切にまとめられたレポート、有能なアシスタント、そして昼前のダブル・マッキアート、カフェと新聞;夕方のまだ混まないジム、健康的な男女、ヘッドフォンからの音楽、運動して汗を流す;早めのサパー、食材を切り分けながら冷たい白ワインを一杯;くだらないテレビを観る週明けの夜。火曜日の朝は国際電話で諸用を片付ける。水曜の午後は建築のワークショップ。デザイン・チームと知恵を絞って都市計画。木曜日の夜はひとりでクラシック・コンサート、途中休憩で誰かと会話して、終了後真っ先に帰る。金曜日の夜はスーツのまま、パーティに参加。シャンパンとバンド。二次会でウィスキー、アーティストの友達と落ち合う。土曜日の朝はマーケットで野菜等食材を購入ーとびきり美味いランチを仕込む。午後はハイドパークで乗馬、ノッティングヒルで古いLPを買う。帰宅後ジャズ(30〜40年代)を聴きながら、夜9時には床についてたっぷり睡眠を補う。日曜日の朝はカフェ・ラテ。洗濯物を干して、読書。携帯電話の電源は切っておく。月に一回くらい海外出張。温かい季節には彼女とリゾートや奥地に旅行する。寒い季節には帰郷して家族と集う。鍋とカニ、築地市場の刺身。
僕は僕の音楽を奏でる -
かなり本気で考えていることをブログに曝け出しているのは何とも芸がない気がして、しばらく日記にパスワードをかけていた。人間の深みは無言のなかにある、と言わんばかりに。しかしそれは僕が弱っていた証拠で、本来ならば言葉くらいいくら発散しても分与しきれないほど僕自身は豊穣なはずなのだ。
そもそも「無言の男がかっこいい」といつから思うようになったのだろう。映画の影響だろうか。それともある程度統計上のを数値を伴った事実なのだろうか。
人間なんてもっとどうでもいい(丶丶丶丶丶丶)ものなんだ。あまりナルシストになってはいけない。肩の力をぬいていい。スタイルは追求の目的ではなく、自然と着いてくるか否かの問題なのだ。スタイルを職人的にこつこつと磨き上げていく、というのはただの妄想だ。磨き上げて痩せ我慢した頂上にちょこっと載せたような「スタイル」なんて僕にはいらない。
それよりも、ガッツが欲しい。流行を忘れて、他人の言葉を聞き流して、あははと笑われても、黙っていられるガッツがほしい。
den 09.03.2008 edit
かなり本気で考えていることをブログに曝け出しているのは何とも芸がない気がして、しばらく日記にパスワードをかけていた。人間の深みは無言のなかにある、と言わんばかりに。しかしそれは僕が弱っていた証拠で、本来ならば言葉くらいいくら発散しても分与しきれないほど僕自身は豊穣なはずなのだ。
そもそも「無言の男がかっこいい」といつから思うようになったのだろう。映画の影響だろうか。それともある程度統計上のを数値を伴った事実なのだろうか。
人間なんてもっとどうでもいい(丶丶丶丶丶丶)ものなんだ。あまりナルシストになってはいけない。肩の力をぬいていい。スタイルは追求の目的ではなく、自然と着いてくるか否かの問題なのだ。スタイルを職人的にこつこつと磨き上げていく、というのはただの妄想だ。磨き上げて痩せ我慢した頂上にちょこっと載せたような「スタイル」なんて僕にはいらない。
それよりも、ガッツが欲しい。流行を忘れて、他人の言葉を聞き流して、あははと笑われても、黙っていられるガッツがほしい。
オペラ『魔笛』 -
ロイヤル・オペラハウスで上演されているモーツァルトの『魔笛』を観てきた。率直に言えば、なんとも支離滅裂な話だった。オペラだからといって何でも高尚なわけではない。音楽はすばらしいが、ストーリー展開が韓国ドラマのように行き当たりばったりである。
***
話は東の国からやってきた王子タミーノが、大蛇に襲われそうになっているところを「夜の女王」の三人の侍女に救われるところからはじまる。大蛇はあっという間に退治され、三人の侍女は、王子の若さと美貌に惚れ、誰が彼の側に残って看病をするかをめぐって言い争いになる。そこに無知な狩人(パパゲーノ、ぼけキャラ)がやってきて、歌って踊って大蛇は自分が駆逐したのだと王子に嘘をつき、恩を売ろうとする。が、三人の使いは戻ってきてパパゲーノの嘘を暴き、その口に鍵をかけてしまう。王子は、三人の侍女から手渡された肖像画に描かれている(「夜の女王」の愛娘)パミーナ姫に一目惚れする。そこに「夜の女王」が登場し、自分の娘が悪魔にさらわれた悲しみを語る。悪魔ツァラトストラ(!)のところから彼女を連れ出すことができれば結婚をゆるす、とタミーノ王子に救出を依頼する。喜んで引き受けたタミーノ王子には、悲しみを喜びに変えられるという魔法の笛が渡される。一方パパゲーノは罪の償いとして王子に仕えるように言い渡され、魔法の鈴を渡される。
タミーノ王子と召使いパパゲーノは、魔法の笛と魔法の鈴をもって今度は三人の神童に導かれながらパミーナ姫を探す旅に出る。(・・・というところでWikipediaをみたら全部載ってた。興味がある方はそちらを検索してください)
ごく簡潔に要約すると、その後タミーノ王子はツァラトストラの神殿で僧侶のひとりと問答し、実はツァラトストラではなく「夜の女王」のほうが悪人であると聞かされる。後半は善悪が逆転して、太陽の象徴ツァラストラ(ゾロアスター教の開祖)のもとで、パミーナ姫の母「夜の女王」(闇の象徴)が克服される物語が展開される。タミーノ王子はパミーナ姫と結ばれるために、悟り(Enlightenment)への数々の試練を乗り越える。「夜の女王」は娘のパミーナ姫にツァラトストラを暗殺するように命令し、最後には自ら神殿を襲撃しようとする。しかし、光にはかなわない、というところで幕は下りる。
***
書いてみるとなかなか面白そうな脚本なのだが・・・『魔笛』は、当時仕事がなく金に困ったモーツァルトが大衆劇場のために書いた作品で、当然宮廷用とは観客の対象がちがった。したがって話も説教がましく、ところどころで「愛とは**である」とか「男は**あるべきだ」という教育的な箴言が挟み込まれている。むろん、それは大衆の啓蒙というだけでなく、モーツァルト本人のフリーメイソン信仰や、大元の童話による影響もあったのだろう。特にフリーメイソンに関しては、光=精神=善、闇=物質=悪、という教義を宣伝しているオペラだ、とすら言われているらしい。しかし、いかにも民衆を教育するために書かれたという臭いがしすぎて、高次元のキャラクター発展や会話のやり取りがないのが退屈だ。(もっとも、台本はモーツァルトが書いたものではないみたいだが・・・)それと、肝心のタミール王子のテノール歌手の演技力がまったくゼロで、登場するたびに幻滅した。
このオペラで本当にすばらしいのは、序曲と8番第一幕のフィナーレ「この道はあなたを目的へと導いて行く」、14番「夜の女王」のアリア「復讐は地獄のように我が心に燃え」だった。
den 02.03.2008 edit
ロイヤル・オペラハウスで上演されているモーツァルトの『魔笛』を観てきた。率直に言えば、なんとも支離滅裂な話だった。オペラだからといって何でも高尚なわけではない。音楽はすばらしいが、ストーリー展開が韓国ドラマのように行き当たりばったりである。
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話は東の国からやってきた王子タミーノが、大蛇に襲われそうになっているところを「夜の女王」の三人の侍女に救われるところからはじまる。大蛇はあっという間に退治され、三人の侍女は、王子の若さと美貌に惚れ、誰が彼の側に残って看病をするかをめぐって言い争いになる。そこに無知な狩人(パパゲーノ、ぼけキャラ)がやってきて、歌って踊って大蛇は自分が駆逐したのだと王子に嘘をつき、恩を売ろうとする。が、三人の使いは戻ってきてパパゲーノの嘘を暴き、その口に鍵をかけてしまう。王子は、三人の侍女から手渡された肖像画に描かれている(「夜の女王」の愛娘)パミーナ姫に一目惚れする。そこに「夜の女王」が登場し、自分の娘が悪魔にさらわれた悲しみを語る。悪魔ツァラトストラ(!)のところから彼女を連れ出すことができれば結婚をゆるす、とタミーノ王子に救出を依頼する。喜んで引き受けたタミーノ王子には、悲しみを喜びに変えられるという魔法の笛が渡される。一方パパゲーノは罪の償いとして王子に仕えるように言い渡され、魔法の鈴を渡される。
タミーノ王子と召使いパパゲーノは、魔法の笛と魔法の鈴をもって今度は三人の神童に導かれながらパミーナ姫を探す旅に出る。(・・・というところでWikipediaをみたら全部載ってた。興味がある方はそちらを検索してください)
ごく簡潔に要約すると、その後タミーノ王子はツァラトストラの神殿で僧侶のひとりと問答し、実はツァラトストラではなく「夜の女王」のほうが悪人であると聞かされる。後半は善悪が逆転して、太陽の象徴ツァラストラ(ゾロアスター教の開祖)のもとで、パミーナ姫の母「夜の女王」(闇の象徴)が克服される物語が展開される。タミーノ王子はパミーナ姫と結ばれるために、悟り(Enlightenment)への数々の試練を乗り越える。「夜の女王」は娘のパミーナ姫にツァラトストラを暗殺するように命令し、最後には自ら神殿を襲撃しようとする。しかし、光にはかなわない、というところで幕は下りる。
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書いてみるとなかなか面白そうな脚本なのだが・・・『魔笛』は、当時仕事がなく金に困ったモーツァルトが大衆劇場のために書いた作品で、当然宮廷用とは観客の対象がちがった。したがって話も説教がましく、ところどころで「愛とは**である」とか「男は**あるべきだ」という教育的な箴言が挟み込まれている。むろん、それは大衆の啓蒙というだけでなく、モーツァルト本人のフリーメイソン信仰や、大元の童話による影響もあったのだろう。特にフリーメイソンに関しては、光=精神=善、闇=物質=悪、という教義を宣伝しているオペラだ、とすら言われているらしい。しかし、いかにも民衆を教育するために書かれたという臭いがしすぎて、高次元のキャラクター発展や会話のやり取りがないのが退屈だ。(もっとも、台本はモーツァルトが書いたものではないみたいだが・・・)それと、肝心のタミール王子のテノール歌手の演技力がまったくゼロで、登場するたびに幻滅した。
このオペラで本当にすばらしいのは、序曲と8番第一幕のフィナーレ「この道はあなたを目的へと導いて行く」、14番「夜の女王」のアリア「復讐は地獄のように我が心に燃え」だった。